看護学生や働いて一番最初に躓くのは、親切と正義感の履き違え③
親切心が招いた出来事と、親切心を履き違えることが如何に後々窮地に追い込まれることになるかを説明しました。
今回は、正義感についてです。
このワード、親切心と同じく厄介です。いきなりですが、
スッキリと解決しないのが、こういうものです。では、なぜスッキリ解決できないのかを考えていきます。
①に関しては「もう嫌だ」理由を問わねばなりません。
もしかしたら、立てたり、歩けたりする事で本人が困ることがあるのかもしれません。
それは、歩けなくなった原因にもよります。
- 原因を思い出すようで恐怖なのかもしれませんし、繰り返すかもしれないと思っていることがある。
その場合は、身体的なリハビリをやる意味がありません。まずは心理的な解決をする必要性があるために、立たせるよりも車イスに戻して、心のリハビリのセッティングを急ぐべきです。
- 歩けなくなる事で、自分の立場や心を守ったケースもある。
その場合、歩けるようになりたく無い希望もあります。全てに介入は出来ないので、本人に全てを問うことができないこともあります。
よって、身体の健康を維持できることだけを目的に切り替えることもあります。
- ただ単純に甘えたいだけの場合
手を貸す事でその人の成長を奪うことになります。また処置側に依存した場合、あなたは私生活もその人を365日プライベートで面倒をみれるのか?とどう必要があります。その場はよくても、今まで優しさに触れていなければ、好意を持たれて悪い方向でアプローチしてくるケースは後を経ちません。ある程度、自分がいなくても成り立つ距離感が必要です。
少なくとも、①に関しては手を貸すという選択肢が方向性を変える為の移動であれば成り立ちますが、それ以外では成り立たなそうです。④にも通ずるところがありますね。共通の認識でいいかと思います。
次に②に関しては、①のリハビリという状況下は変わりませんが、なぜ規定回数。越えているのかです。
- その状況下で満足できないから、早く出来る様にしたいのはわかります。
もしかしたら、このリハビリ内容では患者さんがその後やりたい身体機能には遠く及ばずヤキモキしているかもしれません。
それであれば、目標を聞き、より近づけていくための計画を練り直す必要があるかもしれません。
または、すでに相談していて段階を追っていかないと辿りつかないけど、独自の発想で出来るはずだとトライしている可能性もあります。その場合、手を貸せば怒るでしょうし、自尊心を傷つけるかもしれません。
ただし、身体の状況によっては、やらせてしまうと必要な残存機能を傷つけてしまうかもしれないし、より失ってしまうことになりかねません。その場合、ストップの意味で手を貸し、注意喚起をする必要性が出てきます。
焦りや期待はコントロールするのが難しいので、コミュニケーションをとることがセーブする意味での手を貸すということに繋がります。なので、こちらは状況によりけり可能なことがありますね。
③ここは曲者です。
自分の病棟や外来の患者さんであれば、おおよそなぜ転んでいるか予測できるでしょうから危険性を加味して手を出す判断ができます。
しかし、前情報がない場合予測がつきにくいです。
もしかした、脳出血や気を失っている、朦朧としているなどの状況が加われば、それは下手に頭を動かすと急変に繋がることがあります。
まずは、声をかけて意識の有無の確認。なければ一人で運べませんから、他者を呼ぶ必要がでてきます。
意識がある場合は、どの程度あるのかを確認する必要があります。会話はできるのか、コミュニケーションが成り立つのか。
また支離滅裂な場合、徘徊していた可能性などもあり、急な攻撃に転じるケースもありますから、迂闊に手を出すとかじられたり爪で肉を抉られることも処置側にリスクがあることもあります。
リスクがあるかもしれないゆえに、状況確認しないとわかりませんね。
正義感だけで突っ走ると、手をかしていたかもしれないことがありますね。
案外と病院はいろんなことを考慮しないと、いろんな発想がありますので一筋縄ではいきません。良かれと思ってやったことが相手のためにならないことが実は多かったりもします。
まずは、冷製に、主観的なデータと客観的なデータを分けてみて、それがそのあと成り立つかを考えなければ、トラブルは増えるばかりです。
親切心、正義感が現れたときは、今一度立ち止まって状況を見直してみてください。