看護学生から学ぶ、脳内と図書館の作り方:足浴は加減と満足の意味②
前回までの記事で、リスクを考え、情報収集ができるとお話ししました。
今回の記事では満足度の加減に注目します。
しかし、足浴だけで人生満足度大幅アップは難しいでしょう。
どちらかというと、これからきっかけとなるヒントはたくさん転がっていることによって、満足度が後々にあがるということが正しい。ご本人に対してや自分の今後の洞察力に対してでも。
足浴は、もともと清潔行為になります。
読んで字の如く、身体をキレイにすることが第一の目的です。身体をキレイにするということは、感染リスクを下げると共に、異臭なども減らすもでき、社会生活においては大事です。
次にコミュニケーションのツールになります。そもそも人の身体に触れるというのは、パーソナルスペースへの侵入ですからナーバスなゾーンですね。近づく分の警戒心もあると思いますけど、気を許す部分がある親近感も湧きやすいです。無言で淡々とやるのは怖いですよね、そんなことされたらより一層壁は厚くなることでしょう。
そして、今回の本題、満足度です。
手技に関しては、マッサージの方々に我々は圧倒的に負けますし、それを目的としていませんから手技での満足度を求めるのは難しいです。もちろん退院後の習慣として浮腫防止であれば、やり方はお伝えしますけども、そちらは満足度というよりも理解度を尺度に使います。
前の記事でも伝えた通り、代謝の問題などから垢がこれでもか!ってくらいとめどなく出ます。
しかし、きれいにしているつもりでケガさせては本末転倒です。加減が必要。しかし、加減をするということは、足りない感じがするところもでてきます。
マッサージさんのように専門でもなければ、相手を守るために加減が必要ですし、仕事は山積みで生命に直結するわけでもないのでどうしても後回しにしがちです。
では、どうしたらいいか?
皮膚はお湯につけるとふやけます。
なにを当たり前な!と思われますが、ここを利用してアプローチできます。
まずはふやけると、安全に取れる範囲の垢が勝手に落ちるように時間の力をかります。すると当然、湯温は落ちていきますから、そばに差し湯が必要です。当たり前の配慮ですが、湯につけてる時に
「熱くないですか?またはぬるくないですか?」と質問して、話すきっかけをつくります。
湯が冷たくなってきたのなら、聞きながら差し湯をして維持することができます。もちろん、熱い場合は差し水で冷ましたりも必要です。ピッチャーでお湯や水を運んでいくので、熱すぎるのも冷た過ぎるのも持っていけません。
たまにおや?っと疑問を持つのが、どんなに冷やしても、どんなに温めてもご本人が感じないことはあります。その場合は、主観的な情報が危ういので、温度が変われば皮膚の色も変わるという客観的情報の優先度があがります。
主訴より客観的な情報での判断がより重要だなと、
この方に対する 優先順位のバランス が観察から学べます。
そして、湯につけている間に目的の自然と垢が浮き始めます。ガーゼや手袋の手で擦ると、さらに垢が出て来ます。それは擦っても擦ってもでてくるのです。若い肌では考えられないくらい桶の湯が垢でいっぱいになります。
ほんとは全部取り除きたいんですが、前述通り、実は垢じゃなくてもろい皮膚だったということがあり得ます。
ここで必要なのは、必要性と危険性、バランス力です。ポイントをまとめると、
やってほしい と言われて気をつけなければいけないこと。
- 温度は皮膚の安全を守る限度があること
(体感と実際が噛み合わないことがあるので、観察が必要)
- 垢をたくさんとってほしい、擦ってほしい
(見た目の爽快感と感染リスクとの折り合いがあることの把握)
やりたいな と思ってやりすぎてはいけないこと。
- 見た目の爽快感を押し付けてはいけない
(リスクと自分のエゴの境界線をもつ)
- 教科書通りが適温でも満足でもないこと
(コミュニケーションをとることで、安全の確保や指導にもつながることの把握)
このようにみてみると、患者サイドの訴え、施術サイドの注意点、少し似てませんか?
全く一緒じゃないというところにポイントがあります。
どういうことか?勘違いをしやすいってことです。
足浴は先ほどあげた通り、清潔やコミュニケーション、情報収集 などあります。
一方で、その処置をやらなかったからといって死ぬわけではないし、大きなケガに繋がるわけでもないです。だから、ちょうどいいんです。場所と時間と合意さえあれば、パッとできる。ハードルが低い。
でも、今後なにかを判断していくときの優先バランスの調整や、パーソナルスペース下でのコミュニケーションを知らず知らずに行える。主訴の出し方、客観的データの収集が強制的に行えます。
一方で、シンプルで非侵襲的な行為だからこそ、
身近で、どちらもどうでもいい欲が見え隠れしやすい。
時に同調し、時に相対する。その時に、どこで折り合いをつけるかという訓練をしやすいのです。
ご本人は、もっとやってほしくても先ほどあげたリスクと時間と程度とのバランスを取らねばいけない。
やってほしくないと言われれば、清潔の折り合いのつくところまではやりたいし、必要なものを満たせなければ意味がないと、やる側の定義の問題にも発展します。
似ているようで、実はご本人の意思と、施行者の意思という違いがあるのです。
ここを認知できるかは、大きな違いがあります。
では、手術についてだったらどうですか?
ご本人はやりたくない、家族はやらせたい。分別難しいし、決定は少なくともスタッフがするものではないのがわかりますね。
誰の意思なのか、誰の主訴で、誰の客観的データで、誰が絡んでいるのか。
シンプルに言葉にすると単純ですが、医療という枠組みになると、状況は急に難しく感じます。
よって、日ごろから相手の欲求、やる側の欲求、主訴、客観的データと優先順位を感情に流されず、きちんと棲み分けて判断していくと解決していくことが実はあります。解決する方向がみえると、距離も近すぎて見間違うことも減ります。
医療関係者が、自分の家族を見ないようにするのはここですね。なんとかしたい!という思いは強くなります。しかし、判断を先入観や感情の色メガネで見誤ることはしたくないです。
提供する側になると、灯台下暗しなんてことが起きやすい。だからこそ、ある程度、他人のが俯瞰でもみれるし、相手のことをより安全に守れる可能性があります。
助けたいからこそ、家族の主治医でいることのリスクをわかっている人ほど、相談は受けますが、他の先生に頭を下げてお願いすることに徹する人は多いです。
家族でなくとも、患者さんには常に安全でいてほしいからこそ、
シンプルな処置で自分の立ち位置や相手のスタンスを見直す場所として、
足浴を思い出すのは実に有効だと思います。
もちろん、介護でも、夫婦でも、彼氏彼女でも気づくことはあると思います。
たまには、スタンスの見直し。脳内の図書館の整理として足浴をご活用ください。